名古屋市の中川区について、詳しく解説するサイト『河童の街、名古屋市中川区』

●●●山王など●●●

【松重閘門】

江川線が南北橋にさしかかる位置に松重閘門はあります。
南北橋の東側には堀川が流れ、西側は800メートルほど先で中川運河と繋がっており、
ここは名古屋のパナマ運河とも呼ばれています。
中川運河は北側600メートルほどの所で行き止まりの池になっていますが、堀川よりも
中川運河は低いため、そのまま接続すると堀川の水が流れ込み溢れてしまいます。
そのためこの松重閘門で水位を調整する必要があったのです。
そして堀川と中川運河の間で船の行き来をするため、閘門になっているのです。
松重閘門は1930年に作られましたが、1976年にその役目を終えて現在は横のポンプ
設備で水位を調整しています。
今では名古屋市指定有形文化財に指定され、夜はライトアップされています。

【パナマ運河】

堀川から船がやってきたら、西側の門は閉めたまま東側の門を開け船を通します。
そして東側の門を閉めて水が入ってこないようにしてから西側の門を開けます。
こうすることで最小限の水の流入で船を通せるというわけです。
逆の場合は水の高低差を利用して、ふたつの門の間で船が上がることになります。
これが名古屋のパナマ運河と呼ばれるゆえんです。

【荒子城】

富士天満社はかつて荒子城があった場所で、加賀百万石の藩祖といわれる前田利家の生誕地
と伝えられています。
荒子城は利家の父である前田利昌が築城し、その子である利久、利家などが相継いで居城
したのですが、利家と利長親子が越前国府中に移ると廃城となってしまいました。
荒子城の大きさは東西約68メートル、南北約50メートルで一重掘だったそうです。
利家は1537年かその翌年に、荒子城もしくはここから北東に2.4キロほどのところに
あった前田城で生まれたと言われています。
前田利家は15歳になると織田信長に仕え、22歳になるとまつと結婚します。
まつとは海部郡七宝町の娘で、当時まつは12歳でした。
利家は桶狭間の戦いで活躍し、33歳になると信長の命により荒子城の城主となります。